【出生と学生時代】
ワシントンD.C.で一人っ子として生まれ、母と共にテネシー州チャタヌーガで過ごす。
父は、家族と離れたカンザスシティーに住んでおり、その後、アルコール中毒で死亡した。ジャクソンは父親に人生で2度しか会っていない。
学生時代はオーケストラでフレンチホルンとトランペットを担当していた。
その後、アトランタのモアハウスカレッジに進学し、演技を専攻。そこで「Just Us Theater」という劇団を共同設立している。
【公民権運動】
1968年、マーティン・ルーサー・キングJr.が暗殺された際に、案内人の一人として葬儀に参加している。その後、平等な権利を主張する行進に参加するためにメンフィスに行っている。また、69年には他の学生たちと大学の体制に抗議して、キング牧師の父を含んだ大学の理事会を人質にとり改革を要求するなどの学生運動もしている。
大学側は改革することに同意したが、ジャクソンは2年間の停学を受けることとなった。
結局、1972年にドラマの学士を受けて卒業している。
以後もアトランタに残り黒人人権運動を続けていたが、次第に過激になっていったことを受けて、武力闘争になる前に彼の母によってL.A.に送られた。
【下済みを経て国際的スターへ】
大学時代の1972年にTV映画の「Together For Days」で映画デビュー、大学卒業後の1976年にはニューヨークへ渡り、舞台に出演するようになる。舞台では、花形だったものの映画では芽が出ず、次第にアルコール中毒、コカイン中毒に陥っていく。
しかし、「A Solder’s Story」の舞台を見たスパイク・リーが彼を見出し、1988年「スクール・デイズ」、翌89年には「ドゥ・ザ・ライト・シング」と脇役ながらにスパイク・リー作品に出演するようになる。
オーバードーズをきっかけにリハビリ施設に入り、コカイン中毒を克服した彼は、1991年スパイク・リー監督の「ジャングル・フィーバー」でカンヌ映画祭にて助演男優賞を受賞。これをきっかけに多くの作品に出演し、1994年「パルプ・フィクション」にメインキャストで出演するとこの作品でアカデミー賞助演男優賞にノミネート、スターの仲間入りを果たす。
その後は、「ダイハード3」、「評決のとき」と大作に出演し、興行的にも成功を収めていく。
「ジャッキー・ブラウン」ではベルリン映画祭助演男優賞を受賞。
1999年には自らジョージ・ルーカスに直談判し「スターウォーズシリーズ」の出演を果たし、国際的な俳優に上り詰めた。
2000年には、ハリウッド俳優のの殿堂ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの仲間入りをはたした。
また、映画出演以外にも活躍の場を広げ、マーベル・コミック社のアメコミの中に登場するキャラクター「ニック・フューリー」のアルティメット版のモデルになったり、日本の漫画のアニメ版である「アフロサムライ」の声優を務めるなどあらゆるメディアで活躍している。
【プライベート】
モアハウスカレッジ在学時の1980年に後に女優になるラターニャ・リチャードソンと結婚。82年には娘のゾーイを設けています。
また、バスケットボールの大ファンであり、トロント・ラプターズとハーレム・グローブトロッターズの大ファンである。また、「ケミカル51」の撮影でリバプールを訪れてからはリヴァプールFC(サッカー)のファンでもある。
また、大変なゴルフ愛好家であり、映画出演の際の契約書に「週に二度ゴルフを許容する」といった内容を盛り込ませたほどである。
彼は、実際にははげているが映画撮影でいろいろなカツラをつけるのを楽しんでいる。
参照:Associated Content
主な作品履歴
ドゥ・ザ・ライト・シング (1989) ジュラシック・パーク (1993)トゥルー・ロマンス
(1993)パルプ・フィクション
(1994) 死の接吻 (1995) ダイ・ハード3
(1995) 評決のとき (1996) ロング・キス・グッドナイト
(1996) ジャッキー・ブラウン
(1997) 交渉人
(1998) スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス (1999) アンブレイカブル (2000) スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃
(2002)
S.W.A.T. (2003)キル・ビル
Vol.2 (2004)スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐 (2005) スネーク・フライト (2006) ブラック・スネーク・モーン
(2006)


