【マーロン・ブランドの出生と青春時代】
マーロン・ブランドが11歳の時に両親が離婚し、姉2人とともに母親に育てられるがその後両親が和解しイリノイに移る。ブランドは荒れた青春時代を過ごし、演技においては頭角を現しつつも放校された。その後、ニューヨークでブロードウェイの舞台に立っていた姉の元を訪れニューヨークでレッスンを受けるようになり、そこでスタニスラフスキーのメソッド演技を学んだ。
【マーロン・ブランドの初期のキャリア】
「I Remember mama」という舞台で批評家から絶賛され「最も有望な新人」と言われるが、興行的には失敗に終わっている。1947年に「欲望という名の列車」に出演し、セクシーで粗野な亭主役を演じ注目を浴びる。
1953年に「乱暴者」に出演し暴走族を演じたことにより、若者からの絶大な指示を得ると伴に役者にも影響を与えジェームズ・ディーンはマーロン・ブランドの演技スタイルをコピーしたと言われる。
【ゴッド・ファザーでのヴィト・コルレオーネ役】
プロデューサー側がマーロン・ブランドの素行の悪さを嫌って、キャスティングしたがらなかったが口に綿を入れてモゴモゴとしゃべる独特の芝居で監督のフランシス・フォード・コッポラにアピールし見事ヴィト・コルレオーネ役を射止める。
そして、アカデミー賞を受賞するが授賞式をボイコットし登場せず、その代わりにネイティブ・アメリカンの女性を登場させる。これには、ネイティブ・アメリカン虐待に反対する意図があった。しかし、この女性はネイティブ・アメリカンではなくフィリピン人の女性でマーロン・ブランドに雇われ登場したのであった。
【地獄の黙示録でのカーツ大佐役】
スリムな体系で出演する予定だったが、太った体系のまま現場にきた。さらに監督のコッポラには何も言わずに頭を剃りあげてやってきた。【その後のキャリア】
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」や「スーパーマン」などに出演しギャラも跳ね上がっていった。しかし、晩年はインディーズ映画やB級作品にも出演した。80歳で人生の幕を閉じた後、「スーパーマン・リターンズ」にCGで出演した。
【スキャンダル・トラブル】
72年の『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞を二度受賞するが、撮影中には必ずトラブルを起こし、台詞をすぐに忘れ、女グセが悪かったのでハリウッドでも札付きのトラブル・メーカーとして知られ、『ゴッドファーザー』でのアカデミー賞受賞拒否や、私生活でのトラブルなど新聞のゴシップ欄を賑わすスキャンダルが多かった。
【セクシャリティー】
結婚していたとはいえ、ホモセクシャルな経験もあったとマーロン・ブランド自身が認めている。パートナーの一人だったウォーリー・コックスの遺灰を彼の死後30年間持っていて、その灰に常に語りかけていたことをTIME誌に語っている。
(出典)Wikipedia,Marlon Brando
Retrieved 23:28, 16 December 2007
欲望という名の電車(1951)/乱暴者(1954)/波止場(1954)/野郎どもと女たち(1955) /蛇皮の服を着た男(1960)/片目のジャック(1960)/戦艦バウンティ(1962)/逃亡地帯(1966)/禁じられた情事の森(1967)/キャンディ(1968)/ゴッドファーザー(1972)/ラストタンゴ・イン・パリ(1972)/ミズーリ・ブレイク(1976)/スーパーマン(1978)/地獄の黙示録(1979)/ジェネシスを追え!(1984)/白く乾いた季節(1989) /ドンファン(1995)/D.N.A.(1996)/ブレイブ(1997)/フリーマネー(1998)/ビートニク(1999)/スコア(2001) スーパーマン リターンズ(2006年)(CGによる出演)


